2007年08月24日

天才富樫雅彦さんの訃報


私がジャズを好きになった頃、渡辺貞夫カルテットが憧れの的だった。
そして私もアルトサックスを志した。

去年、ピアノの本田竹広さんが亡くなった時も非常にショックだったが、今度はドラマー富樫雅彦さんが天に召された。

私がジャズを聴くようになってからは、もう既に車椅子の富樫さん、だった。
そして、時代が時代だったためか、実験的、創作的な作品に没頭されていたので、おはずかしながら富樫雅彦作品を論じられるほどには聴いていなかったことを、今になって悔やまれる。

でも、その頃、貧乏学生には非常に嬉しいFM放送が沢山有って、毎週楽しみにしていたものだった。
その筆頭が、資生堂がスポンサーになったFM東京の「渡辺貞夫マイ・ディア・ライフ」だった。
DJ小林克也さんの声も格好よい憧れだった。


すでに前衛派パーカッショニストで通っていた富樫さんが、フュージョンに傾きつつあった渡辺さんとは絶対に合わないだろうと思いこんでいたところ、
ある週のマイ・ディア・ライフで古巣ナベサダカルテットに里帰り、バップを演奏する、という特集があり、今でも大切にカセットテープに保管してある。

脚がつかえず上半身だけでどう演奏するか、という事実をいかにして音で聞き分けられるか、そんなことばかりが私の興味の対象だったのが卑しい限りだったが、今思うと涙が零れ落ちてしまう。


夕刊フジの記事に、これまた涙を誘うこぼれ話が紹介されていた。

8月24日 17時00分 更新

ナベサダら語る…富樫雅彦さん天才ドラマー伝説

Copyright 2007, TheSankeiShimbun.
 22日、心不全で亡くなったフリージャズの天才ドラマー、富樫雅彦さん(享年67)。身内だけの密葬では出棺の際、かつてカルテットを組んだ渡辺貞夫(74)がサックスを吹いて見送った。

 「ドラマーとして足が使えなくなるという大きなショックもあったが、その後もパーカッション、作曲家として生きた彼の生き様は音楽一筋だった。僕にとっては生涯の友」としんみり渡辺は話した。

 14歳でドラマーとしてプロデビュー後、ピアニスト、佐藤允彦(65)らとトリオなどで活躍する中、事故に遭い30代で下半身不随に。

 ドラマーとしては致命傷だった。精神的に落ち込んだが、“富樫の坊や”とかわいがった先輩たちの励ましで、パーカッショニストとして蘇る。

 後にパーカッションの弟子となった横山達治(55)は、意外な趣味の思い出を語った。

 「音楽に関しては繊細で純粋。厳しい方でしたが、離れるとさっぱりとした男らしい方でした。思い出は、師匠の車いすを押しながらの蝶の収集ですね。西表島ではハブを、千葉ではマムシをまたいで幻の蝶を捕った。見せると『ありがとう…』って泣きだしたりね。山形で獲った幼虫を大切に持ち帰ったら、ハエになって大爆笑したこともありました」

 虫取り網を持つ富樫さんは「あっちだ、こっちだ」と、時には車いすごと転がって、子どものようにはしゃいでいたという。

 晩年は体調不良から演奏活動をやめ、創作に力を注いだ。ピアニストの山下洋輔(65)は、「富樫さんに作ってもらった曲だけは“気に入ってもらえるかな”って考えて弾いてる。バッハの曲でもそう考えたことはないけどね」と、その才能を惜しむ。

 最後に会ったのは先月中ごろ。「いつもは“洋輔”と呼ぶのに、ジッと僕を見ながら、“山下洋輔さん”ってね…」。言葉を詰まらせた。

 富樫さんは若いころ住み込みでドラマー、奥田宗宏に師事した。その子息でプロデューサーの奥田英人氏は、人知れず努力する姿を知っている。

 「富樫さんのお父さんはベーシストで、最初はバイオリンを習っていた。あるとき、ウチの父がジャズドラマーの神様“マックス・ローチ”を目指せ−と話したそうです。そのローチも今月16日に亡くなった。練習の虫で食事をしていても、メロディーが浮かんだら食事を忘れてスティックを握っていた」

 日本が誇る音楽家がまたひとり去った。


[夕刊フジ]

ラベル:富樫雅彦
posted by Jersey Bounce at 23:17| Comment(0) | TrackBack(0) | Jazz独白 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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